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zoom RSS 多摩中流に「終りの古墳」を訪ねる

<<   作成日時 : 2017/03/05 17:44   >>

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2月28日(火)早春の一日、多摩川中流域に残る終末期の古墳を訪ねました。平成24年に催行した東京の古墳巡りの続編になります。
最初の見学地はあきる野市の瀬戸岡古墳群、ここには7世紀前半から終末までに築かれた50基ほどの群集墳が分布していました。地下に横穴式石室を構築し、墳丘は申し訳程度に石を積んだだけという特異な古墳でした。古墳時代も末の頃、どんな人々がやってきてこの墓域に葬られたのかロマンを感じさせる遺跡でした。
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   瀬戸岡古墳7号墳 
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  瀬戸岡古墳群は秋川の支流平井川の河岸段丘半径150m程の範囲に密集しています。

次に訪ねた地は日野市新町の七ッ塚古墳群。この古墳群からは明治期に人物埴輪が出土したと伝わっています。多摩川の両岸に無数に築かれた群集墳も現在では住宅地の中に埋没してしまいましたが、ここではその頃を彷彿させる景観がわずかに残っていました。
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古墳時代の終わりごろ多摩川中流域では前方後円墳に代わり特殊な形の古墳が築かれました。多摩市百草に訪ねた稲荷塚古墳は、八角形の古墳として知られています。江戸時代に墳頂に神社が建てられ形は大きく変わってしまいましたが、地域性の強い形をした横穴式石室を持つ7世紀初めの流域では最大の古墳でした。
八角墳は7世紀後半には天皇家の墓にも採用されており、先進的な思想を持った人物がこの多摩の地に居たことがわかります。

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午後は府中市の熊野神社古墳展示館を訪ねました。ここには10年ほど前、発掘調査で上円下方墳とわかり見事に復元された古墳がありました。この古墳の造られた直後に、この地は武蔵国府や東山道が築かれ律令国家武蔵国の中心地になったわけです。発掘の経緯から古墳の特徴、時代背景など詳細な解説を、発掘にも携わった府中市の西野学芸員様に来ていただき聴くことが出来ました。
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  中央作業服姿の西野学芸員
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  復元された上円下方墳   全国でも7基ほどしかない希少な形の古墳
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横穴式石室も展示館の一角に復元されておりヘルメット着用ランプ携帯で全員代わる代わる観察しました。

最後に向かった地は狛江市に残る6世紀の古墳です。かっては狛江百塚と言われるほどの大古墳群群があったとのことですが現在は住宅地の片隅にわずかに残されています。その中から遺存状態が対照的な二基を選んで見学しました。
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 亀塚古墳は全長50m程の当地では最大の帆立貝型古墳でしたが、昭和26年ごろ破壊の憂き目にあいそうになり急きょ調査されて銅鏡や馬具の一部など貴重な副葬品が発掘されています。現在は周りを住宅に囲まれて押しつぶされそうになりながら、墳丘のごく一部に記念碑を建てて保存されていました。
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 兜塚古墳は同じように住宅地の中にありながら墳丘は手つかずのまま遺され都の指定史跡として大切に保存されていました。ただし学術調査は周濠の確認調査程度で6世紀中ごろの円墳という以外詳細は未知のままです。
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好天に恵まれ、古代のロマンに思いを馳せた一日でした(参加31名) kin











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